4 .陸羽と茶経                   トップページへ
 長い歴史から現在まで、「茶」に関する書物で「茶経」が最高のものとされ、現代のように出版物が溢れる時代になっても、その評価は些かも褪せることはありません。この書は以後のすべての「茶」に関する書物に影響を与えたと言っても過言ではありません。それは日本の茶道に対しても同じで、「千利休」の高弟「南坊宗啓」の書「南方録」は、「茶経」の「一之源」の書き出し「茶は南方の嘉木なり・・」に基づいています。また「五之煮」に記載される「茶」の立て方は、瑣末な点を除けば、現在の日本茶道となんら変わりません。「陸羽」はまた「一之源」で「茶」を飲むに相応しい人として、「行い精れ、倹の徳のある人の飲物に最もふさわしい」と表現しています。「倹」とは倹約の「倹」で、「華やか」の対極にあり、「侘び茶」と一脈通じる処もあります。「陸羽」の生まれたとされる733年は、「唐朝」の玄宗皇帝の治世に当たります。世界帝国としての「咲く花の臭うがごとく」と言われた全盛期です。華やかなことこの上なしの時代です。都の「長安」では金や銀の器で「茶」が飲まれ、麗々しい衣装で身を飾った名門貴族が尊ばれる、「煌びやかな文化」が確立していたのです。「陸羽」が活躍した湖北省は辺境の田舎に過ぎません。しかし、そんな田舎でも時代の風潮として「煌びやかな文化」が尊ばれていたでしょう。ではなぜそんな時代に「陸羽」は「倹」を説いたのでしょうか。「華美な風潮への警鐘」などという説教めいたことでもなく、「時代へのアンチテーゼ」というような芸術家めいたことでもないと思います。

 5.陸羽その生い立ち
 今の湖北省天門市に「陸羽」は生まれます。貧しい家に生まれたのでしょう、三歳のときに「西塔寺」の参道にあった「雁橋」の辺に捨てられます。その捨て子を拾ったのは寺の智積禅師ですが慈善事業でなしたことではありません。仏門の人ですから慈悲の心はあったでしょうが、それで捨て子を拾っていては、当時の社会では寺はすぐに孤児院になってしまいます。「唐代」の寺は広い荘園を持ち、文化的学問的エリートの僧達の組織体です。下僕としての労働力はいくらでも欲しいのです。当然「陸羽」は将来の労働力として期待されたのです。寺が一人の捨て子に何の愛情も持っていなかったことは、彼が名前すら付けて貰えなかったことでも明白です。彼自身の伝記によると、「陸羽」は吃もりで、醜悪な容貌であったそうです。しかし利発なことは人一倍で、そこを見込んで智積禅師は「陸羽」に対して九歳から読み書きを教えたそうです。これでも禅師が「陸羽」に愛情を持っていなかったことが解ります。現在でこそ九歳からの勉学は遅いと言えませんが、当時の感覚では遅すぎるのです。つまり彼が利発さを発揮しなければ、単なる労働力と見られその機会は与えられなかったでしょう。彼は読み書きを覚えてから、自分で筮竹を引いて「易経」に照らして、「陸羽」という名を自分に与えたそうです。その後、禅師は仏教を彼に教えようとしますがそれに反発して「儒教」に興味を持ち、堂々と禅師に反論したようです。このあたりに「陸羽」の人となりが感じられます。史上華やかな「大唐帝国」もそれは支配階級だけのことです。寺の外に一歩出れば、食うや食わずの庶民の生活です。孤児の彼に用意されている運命は、奴隷になるか、野垂れ死にしかありません。それが今は寺に拾われ、働かされたでしょうが勉学の機会もあり、仏教の手ほどきも受ける身なのです。将来努力すれば僧侶にも寺の庶務を預かる執事にもなれます。庶民からすれば大変な出世です。なぜ「陸羽」はそれを拒否するのでしょう。それは後年に「茶の文化」を創造することと大きな関係があると思われます。小生は「陸羽」は「自己の証明」と「自己の価値」を求めていたと考えます。我々は名前と家族を持っています。「○田○夫」と言う名は強烈な自己証明です。またその存在を無条件で容認してくれる家族がいます。しかし幼少の彼は自分が何者かも解らず、存在を無条件に認めてくれる者も有りません。当時は名門貴族であっても容姿で出世が決まりました。奴隷でも容姿の良い者は価値が高いのです。ところが彼は容貌醜悪で、その上吃もりです。周囲の人々からどのような罵声を浴びせられたか簡単に想像できます。幼い頃から利発さを発揮し、人に議論を吹っ掛けることや自分自身で「易経」という権威を借りて命名することは、「陸羽」の「自己の証明」と「自己の価値」の追求なのです。僧侶になることは「俗世の縁」を絶つことです。かれは絶つべき「縁」がない故に、それを強烈に求めているのです。「儒」は反対に「俗世価値」を高めてくれるものです。当然の興味といわねばなりません。しかしいくら「儒教」を学んでも、絶対の出世コースである「科挙」という任官テストからは、遠い処に居るのが彼です。「陸羽」は既存の価値ではない、もっと新しい価値を見出そうとしたと思われます。当時ようやく普及してきた「茶」、高僧も王侯貴族も士大夫も熱中していた「新しい飲物」です。それは単なる飲物でなく「文化の香り」がするのです。しかしまだ系統立てた「茶の法」がありません。それを自分が確立することができれば何よりの「自己の価値」の創造になるのです。当時禅寺と「茶」は深く結びついていました。高貴な来客にも、修業中の僧侶にも「茶」は供されていたのです。幼い使用人の「陸羽」その給仕に働かされていたでしょう。身近な「茶」がどのような価値を持つものなのか、利発な彼は理解していたでしょう。十代の後半でしょう、30頭の牛の世話を命じられていた彼は、仕事の間も寸暇を惜しんで勉学に勤しんだのですが、同僚や上司からはサボりにま見られます。制裁や「いじめ」もあったのでしょう。「陸羽」の方から寺を見限り出奔して、芝居小屋で何をするのかと思えば、そこは世の中うまくしたもので、道化師から出発します。しかし、読み書きの出来る者が極端に少ない時代です。まして簡単な筋書きの出来る者は貴重です。すぐに芝居の脚本を書くようになります。「自己表現」を求めていた彼にはぴったりの仕事です。小生はこの芝居の一座で、「陸羽」は彼らから「世間の事」や「人付き合い」を学んだのでしょう。このような封建的な時代に田舎芝居で生きていくには、世間を知り抜いた上での「人付き合い」のプロでなければなりません。「陸羽」も人の機微が解らなければ、大衆受けする脚本は書けない筈です。「陸羽」ここで初めて人情を知り、「人の表と裏」を学んだと思われます。このことがこの後、彼に幸運を呼び込むことになります。次々と才能を認め、伸ばしてくれる人にめぐり合うのです。


 6.その後の陸羽
 これにより「茶聖・陸羽」にむかって次々と幸運の階段が用意され、彼は急速に高みに昇り始めます。直ぐにそこに迫った、「唐朝」の屋台骨を揺るがす「安史の乱」ですら、彼には「詩歌の幸い」となってしまいます。 「陸羽」の居た芝居の一座が竟稜の滄稜で開かれた地方館員が民衆に酒食を振舞う行事に招かれます。何の偶然か都から左遷されたばかりの、新任の竟稜太守「李斉物」の知遇を得ます。「太守」いえば地方長官です。その「太守」が「陸羽」にどのような才能をみだしたのでしょうか、太守手ずから「詩」を教え、火門山に住む「鄒夫子」という学問の師に付かせました。このとき「陸羽」は数えで十四歳か十八歳。余程非凡な光る才能がなければ掴めない幸運です。その六年後、また都から左遷された竟稜司馬「崔国輔」とも知己を得ます。司馬は地方警察の本部長というところでしょうか。太守よりは数段下の官職ですが、極端な「官尊民卑」の時代です。志井の人間からすれば「神」にも似た遠い存在の筈です。しかし、竟稜太守「李斉物」の時よりは「陸羽」の学業も進んでいたでしょう。左遷されて官界にも飽き、暇を持て余していた「崔国輔」にとって、田舎には稀な教養人の「陸羽」は気の置けない話し相手であったかも知れません。「李斉物」や「崔国輔」にとって「陸羽」一人の生活の援助はポケットマネーで済むことです。この「崔国輔」と出会った時代が、彼に取って人生で初めての、落ち着いた余裕のある生活ではなかったと思われます。小生はこのとき「崔国輔」の援助で不朽の名著「茶経」が出来たと思っております。 この後直ぐに「安史の乱」(755年)が始まり、戦火を逃れる流民と共に「陸羽」も難を避け、流浪の果てに湖州(浙江省)に落ち着きます。(760年頃)。この流浪ですら生涯の友となる詩僧「皎然」との出合い、湖州への転居は、唐の忠臣で当代の大文化人で、大臣経験もある大書家「顔真卿」との縁を生むのです。773年「顔真卿」は湖州刺史(州の長官)として赴任してきます。実はこれも左遷だったのです。「陸羽」よくよく左遷された人に縁があるようです。既に「茶経」の著者としての「陸羽」を知っていたのでしょう。「顔真卿」は文化事業の「韻海鏡源」の編纂に彼を参加させ、「浩然」の「妙喜寺」に「三癸亭」という住宅まで建てて住まわせました。この二人と「陸羽」との付き合いは多くの詩に残され、今でも窺い知ることができます。当時「陸羽」の名は世に知れ渡っていました。「東官府」の「太子文学」に任命されましたが、任官せず処子のままで過ごしています。 ここまでの「陸羽」を世に出した幸運も、彼の側からすればコンプレックスに苛まれたものかも知れません。いくら学業を積んでも、いくら対等に付き合いが出来ても、彼らと違って、「陸羽」の前には官界での活躍の道は開かれていません。全てに対等に付き合うには彼らの「価値」とは別の、全く新しい「価値」を創造することが求められたのです。それが拾われた「寺」で知った、新しい「文化の萌芽」を秘めた「茶」であったのではないかと、小生はそう思っています。其れはちょうど「太閤」の地位にまで登りながら、寒門の出身のコンプレックスを「茶の湯」で対抗した豊臣秀吉であり、絶対の権力に「文化的権力」で対抗した千利休にも似たものを感じます。


 7.茶経
 さて、ここからが本題の「茶経」です。「唐代」の書物は史書や制度を記したものを除くと、殆どが散文風のもので、体系立てて文章を構成することはありません。しかし、「茶経」は項目別に部を設けて、まるで箇条書きのように、「茶」の全容を体型付けて記述されています。ここにも「陸羽」の従来の慣習に捕らわれない新規性と、全てを語ろうとする「若さ」を感じます。 内容は「一の源」で茶の起源を、「二之具」では製茶に使う道具を、「三之造」では製茶工程を、「四之器」では茶器に付いて語り、「五之煮」は茶の点て方と火や水の良否、「六之飲」は飲料に付いてと、茶に関連した主要人物、当時の茶の種類、悪しき飲み方等、「七之事」では「茶経」以前の茶に関連する書物、「八之出」では茶の産地とその優劣、「九之略」では略式の茶の作法、「十之図」では茶席には「茶経」を掛け軸にして掛けて置くべき事を説いています。特に「十之図」は「喫茶文化」の創造者たる自負と、それに従わしめようとする強い意志を感じます。まさに「新しい価値の創造者」です。このテキストでは全てを扱う余裕はありません。また「茶経」が主に扱う「茶」は、「緑茶」の「餅茶」で、それを粉末にした「抹茶」の点てかたです。このため以下の説明は、現在の中国茶にとって必要なものだけに止めます。「唐代」は国の中心は都の長安と副首都格の洛陽です。「陸羽」が活躍した竟稜や湖州は田舎と表現しても良い処です。その田舎で著わされた「茶経」が大きな影響力を持ち、著者の「陸羽」の名は「茶の仙人」のようなイメージで天下に轟いたでしょう。「新唐書」の「隠遁列伝」にその名を刻んでいます。


 8.「三之造」(「二之具」を含む)

 ここで記述される「製茶方法」は当時の一般的手法と見るより、「陸羽」が納得できる、ある意味では最高級品を作り出す方法でしょう。また湖州顧渚山の「陽羨茶」は、「陸羽」の進言で「貢茶」(皇帝に献上される茶)となったといわれます。その
「陽羨茶」の中でも「貢茶」とされるのは最高の「紫笋茶」といわれろものです。この紫色の蜀形(たぶん茶の芽の形)といわれる「陽羨茶」も同じ方法で造られてと想像しています。 以下に説明する「製茶工程」は「二之具」と「三之造」を合わせまとめたものです。

一、茶摘
 三月〜五月(太陽暦)に茶摘を行います。(「紫笋茶」の場合は四月)蜀形の芽の取れる茶樹は、石灰岩や砂岩の風化した土壌(爛石)に生えている。芽の長狭12〜15cm(雲南大茶葉種か)で蕨が初めて芽を伸ばしたときに似ている。茶摘は朝早く朝霧を踏むようにして行うが、雨天や曇天には行わない。

二、殺青と揉捻
 摘まれた葉は、竃に刃釜を掛け、木製か素焼きの蒸篭に入れて蒸します。次に蒸し上げた茶葉を臼と杵で搗き上げます。

三、成形
 「承」という木製か石製の台の上に布を敷き、その上で「規」という型に茶を詰めて成型します。このとき相当な圧力を掛けるようで、「承」を半分土に埋めると指示しています。また「規」も円形や方形、花型と各種あり、材質も鉄製や、木製、曲げ木のものがあります。一つ固めるごとに布を取り替えるとされていますので、水分を吸収させる目的が有るのかも知れません。この布は油絹(目の細かい滑らかな絹)か雨衣の一種の古着で作ります。

四、乾燥
 「茶経」による「乾燥工程」は二段階」に別れ、成型の終わった「固形茶」を、二本の竹の間に竹の皮を網代に編んだものを張った「は莉」という篩の上の上に並べ、天日乾燥する。次に「固形茶」に小穴を開けて、そこに竹串を通す。「焙」という半地下式に乾燥炉を造り、「固形茶」を刺し通した竹串を並べて焙り乾かします。このとき、炭火等の直火なのか、温風や煙による乾燥なのかは文献にありません。

五、保存・熟成
 こうして製品化された「固形茶」は「育」という保存箱に収納して置きます。木製の枠に竹で編んだ壁をつけ、そこに紙を張った「密閉容器のようなもので、熱い灰を入れた火桶を中に入れて温度を保ち熟成させます。また江南の梅雨時は熱い灰ではなく火を炊いて温度を払います。

 このようにして出来上がった「茶」は、「蒸青緑茶」の「固形茶」と見なすことができます。これが現在のように荒く「茶葉」の形を残したものか、菓子の「落雁」のように殆ど「茶葉」の形を止めていないものかまでは不明です。「茶経」では完成した「固形茶」を八等級に分けて優劣を論じていますが言葉も難しく、ここでは省きます。ただ、下記のような文は興味深いので記載しておきます。

『光と黒さとでこぼこのないものを嘉という者は、鑑定の下等の者である。皺と黄色とでこぼこを以って佳と言う者は、鑑定の次等の者である。もし以上に挙げた条件をにな嘉とし、またみな不嘉という者は、鑑定の上等の者である。その理由は精分を外に出しているものは光があり、精分を内に含んでいるものは皺があり、一晩たって作ったものは黒く、その日の内に出来上がったものは黄色であり、蒸して押さえることでこぼこがすくなくなり、緩めるとでこぼこになる。これらのことは、茶でも他の草木の葉でも同一である。茶の良否は口訣にある。』

 ここでは「固形茶」は外見からは判断できず、良否は口訣にあるとしています。外見の特徴では一概に言えず、その物を見て一つ一つ判断しなければならないと言う意味でしょうか。一晩おいて作ったものは黒いと言っています。これは常温で放置した茶葉が自然蒸発したことでしょう。またその日の内に作ったものは黄色と言っています。前者は半醗酵の「青茶」、後者は無醗酵の「緑茶」でしょう。小生流に解釈すると「茶は飲んでみなければ解らない」ということです。値段や銘柄に惑わされたり、入門書や人の意見では、「自分が美味しいと確信できる茶」には巡り合わないということです。


 9.「六の飲」
 ここでは「茶経」が著わされた当時の「茶」の種類について書かれています。「茶」を分類して「そ茶」・「散茶」・「末茶」・「餅茶」の四種としている。この内「そ茶」は現在でいう「毛茶」にあたる半製品のように「荒茶」か、もいくは文字の意味通りの「粗茶」かもしれません。小生自身は「白牡丹」の低級品のように、摘み取った葉のそのままの姿を残したものではないかと想像しています。つまり「茶葉」を天日乾燥しただけのものだと思っています。次の「散茶」は明らかに「葉茶」のことですが、これも現在の「葉茶」ではなく、蒸した「葉茶」を固めた現在流の「固形茶」だと思っています。この形であれば長距離の運搬も簡単で、保存に関しても風通しの良い所に吊るすなどの方法が取れます。正体が不明なのは「抹茶」で、「餅茶」を粉末にしたものとの説もありますが、これは商品としての運搬や保存性に問題が残りますし、「茶経」の中でも「餅茶」の粉末を「抹茶」と呼んでいません。これも小生の想像ですが、「散茶」を小売段階で刻んでから炒って、洗い粉末状にしたもので、主に葱や生姜等と一緒に煮て飲む、「スープのような茶」に使われるもので、食味や喉越しを考えて粉末状にされていると思っています。この文章の続きとして、湯を注ぐだけで飲む「えん茶」という飲み方が紹介されています。これは『茶の葉をきり、いり、ついて造り、瓶や缶の中に貯える。湯を沃ぐだし方を「えん茶」という』とあります。これは茶の飲み方ですので、これを主に「散茶」を飲む方法とすればつじつまが合います、「きり」とはざっくりと切るとの意味ですので、現在の「餅茶」を切るには適当な表現ですし、「いり」は水気をとるとの意味で、また「ついて」は穀物を搗くとの意味ですから、荒く搗く、ここではつきほぐすの意味でしょう。これで切った「餅茶」の一片を軽くあぶり、搗きほぐして湯を注ぐ訳ですから、現在の「普耳茶」の飲み方とあまり変わりません。「六の飲」では先ほどの「スープのような茶」を「陸羽」は、「溝の捨て水」と呼んで排撃しています。現在の私達もその考えに賛成しますが、寺で使われる。茶や、貴族や官僚の館で用いられる茶は、確かに高級品で「茶」そのものの味が味わえなかったでしょうが、製茶技術の未発達の時代に、庶民が飲む茶は「スープのような茶」にしなければ飲めないものだったかもしれません。


10.「八之出」
 この「八之出」では「陸羽」が知る限りの茶産地と、そこから生産される「茶」を上等・次等・下等・又下等の四階級に分けて品評しています。八世紀の地名を現在に当てはめることは難しく、明確な部分で解っているものの内、今も茶を生産している処を抜書きしてみます。

原文『山南では峡州が上等、襄州・荊州は次等。衛州は下等。金州・梁州は又下等』

原注による県名   現在の県名           現在生産の茶銘
峡州-遼安県⇒湖北省宣昌専区遼安県⇒遼安鹿苑(黄茶)・鹿苑毛尖(黄茶)
     宣都県⇒湖北省宣昌専区宣都県 
    夷遼県⇒湖北省宣昌市⇒峡州碧峰(緑茶)・宣紅工夫(紅茶)
襄州-南しょう県⇒湖北省襄陽専区南しょう県
荊州-江陵県⇒湖北省荊州専区江陵県
衡州-衡山県⇒湖南省衡陽専区衡山県⇒南岳雲霧茶(緑茶)
     茶陵県⇒湖南省湘澤専区茶陵県⇒韻峰?(緑茶)
金州-西城県⇒陜西省安康専区安康県
    安康県⇒陜西省安康専区漢陰県
梁州-褒城県⇒陜西省韓中市の西北
    金牛県⇒陜西省韓中専区べん県の西
(上記のような記述になりますが以下はまた記入します。)

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